はじめに

デヴィッド・グレーバー「僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則」を読んだ。

これまでこのブログでは IT 技術関連の記事を書いてきたが、最近はZennで書くようになったので、これからはZennに書くのには適さない記事を書いていこうと思う。

はじめにこの本を読むに至った経緯から説明する。私は数学とか物理とかプログラムが好きな人間で、理路整然と並んだ定理や原理を大切にし、プログラムで自動化された仕組みを作るのが好きな人間である。(もちろん申請書類を書くのは大嫌いだが。。。) 最近は、ChatGPT をはじめとする生成系 AI を試していて、この技術がどういった方向に向かっていくのか気にしている。 生成系 AI が社会どのように変えていくのか、ヒントが得られる気がしてこの本を手に取った。

各章を読んでメモと感想を書いて、最後に全体の感想を書く。

序 リベラリズムの鉄則

メモ

アメリカの政治の歴史とアメリカの政府と金融と企業が一体となっている。 そもそも金融とは国が戦争のために作ったもので、金融そのものが規制の塊みたいなものなのだから、市場の自由な競争に任せれば規制が全てなくなるというのは幻想で、市場とはそもそも官僚的なシステムそのものである。 そのため、そもそも市場に任せれば効率化されるのではなく、逆に規制が増えて規制が正しく働いているか監視するための役所の仕事と人が増えて全体として非効率になる。 この構造は社会のありとあらゆる場所で観測できるので、それをリベラリズムの鉄則と呼んでいる。

リベラルな人が規制緩和を掲げて選挙に出るが、それはその人が得する形に規制を変更するだけで、それによって手続きが減ることはなく、逆に手続きが増える結果になっている。 例えば大学の研究においては、競争的資金獲得のために研究者は大量の書類を書かなければならなくなった。

官僚制は政府と金融だけでなく、企業や教育や医療などが一体となって、一つの大きな官僚システムを構築している。 例えば、アメリカは仕組みとして大卒でないと企業に入れなくなったので、学生は大学を卒業するために金融機関から多額のお金を借りて借金をするような仕組みになっている。 なので学生は借金のために大量に書類を書くというお役所仕事に邁進する羽目になっている。 また、それでお金を借りたら企業に入って収入を監視されながら働き、その収入の一部を銀行に納め続けるシステムが出来上がっている。 これは社会全体として官僚システムを構築したことの一つの例である。

金融市場が発展するにつれて、市内には銀行の支店が増え続けた。 銀行の支店には銃を持った警備員とパソコンがある。 これは暴力と規則が一つになっており、官僚制の象徴そのものである。

感想

日本の右翼と左翼は逆転してる?からか混乱して、アメリカの政治の部分はよくわからなかった。 リベラルな人たちが規制緩和を掲げるが、結果として規制が増えて書類が増えるというのは日本でも同じだなぁと思った。 制度の変更って制度を作る人が得する形で変更するから、そうなると弱い立場の人が報告書類を大量に作らなきゃならなくなるのは当然な気がする。 研究とかね。

自由な市場競争の合理性は幻想であるというのは、新たな気づきだった。 農業のような儲からない仕事は価値がないから先進国で高度な教育を受けた人がやるのは勿体無いよね。 だから貿易を自由化して輸入しましょう。 って例だけを聞いて市場経済の合理性について納得してたが、そもそも貿易するには大量の制度と警察と役所の仕事が必要なので、それをゼロとして見積もって市場の自由は全体として効率的を論じるのは間違ってる気がした。 実際、グローバル化とともに書類が増えてるわけだし。

1  想像力の死角

メモ

母親が病気になった際に後見人と銀行をたらい回しになった。 官僚制における書類作成は複雑すぎてもう誰の手にも追えない状況になっている。 現代のペーパーワークはつまらないものとして規定されている。 現代の出生届は非常に無機質なものだが、昔の出生届は豪華な装飾がおこなわれていた。 もっとも自由と言われている大学人も現在では官僚である。 大学人も休憩室で会話する際には自信の研究について語るのではなく、自分が普段やっているペーパーワークについて語る。

あらゆる官僚的手続きは全て構造的暴力に基礎付けられている。 一つ例を挙げると、アフリカのアパルトヘイトはでは、労働者に様々な個人情報が記載された単一の ID カードを配布していた。そのカードは「ばかパス」と呼ばれていた。 これはそもそも構造的暴力が官僚的手続きを作った愚かな例である。

構造的暴力は解釈労働をうむ。 解釈労働とは相手の考えに思いを巡らせることである。 フェミニズムを例にすると、男性が女性の考えに思いを巡らせる時間は、女性が男性の考えに思いを巡らせる時間よりも圧倒的に短い。 それは、女性は男性による構造的暴力の被害者であるから、女性は男性の考えを理解するために解釈労働を行うのである。

構造的暴力の加害者側は、自身の立ち位置が崩れるのを嫌う。 警察官を例にすると、警察官は普段はペーパーワークをしているが、免許証持ってない人が運転してて逃げた場合とか、逮捕しようとしてるのに抵抗する人に対して暴力的になる。 それは官僚システムの中で自分の役割が危うくなるから。

感想

官僚制の中では誰しもが構造的暴力の加害者になってしまうことがある。 そうなると自分はあまり意識していない人(構造的暴力の被害者)に良く観察されることになる。 私はこの記事を思い出した。 携帯電話のアプリ開発を軍隊に例えて面白くした記事だが、非常によく書けていると思う。 確かに、この記事の人物たちも官僚的なやり方でアプリの開発をしているし、その上で自身は構造的の被害者なので加害者側をよく観察している。 高度に官僚化された組織において上司というのは構造的暴力の加害者になりやすいので、部下に対して解釈労働を払う方が良いのかもね。

2  空飛ぶ車

メモ

1960 年代の人々は、2015 年には頭上を空飛ぶ車が飛び回っていると本気で信じていた。 ただ、2015 年になっても一向に空飛ぶ車は実現していない。 それはなぜか? 1970 年代にテクノロジーの投資先が、労働規律や社会的統率を促進させるものに根本的に転換したから。 1968 年の冷戦終結からその方向に変わっていった。

研究の「競争」によって、逆に革新的な研究ができなくなってしまった。 研究者は独創的で創造的な研究をする計画書を大量に書くが、それを書くのに必死なので、そのような研究のための時間はほとんどなくなってしまった。 現代の研究者はプロの自分売り込み人となっている。 また、企業も研究開発「競争」によって、自社の発見を全く公表しなくなったし、むしろベンチャーの発見を買い取って隠蔽するようになってきた。

私たちの社会は深刻なまでに官僚制社会である。 あまりに官僚制が浸透してしまっていて我々はそのことをほとんど認識していないし、さらに悪いことに官僚制とは別のやり方で物事を進める方法され思いつかない。 官僚制が進むにつれて詩的テクノロジー(空飛ぶ車や月の移住など)から官僚制的テクノロジー(効率的な書類作成のプラットフォームなど)に移行が怒っている。 官僚制によって詩的テクノロジーの研究が抑え込まれ、官僚制的テクノロジーばかりが発展している。

著者は、オープンソースのインタネットソフトウェア開発の一部は、自由で想像力のある創造性が培養されている数少ない領域と言っている。

感想

1970 年以降は官僚制によって真に創造的な技術の発展を抑え込まれてしまっているらしい。 確かに、現代の技術は IT が異常に発展していて、空飛ぶ車とか月に移住するとかそういった方向にはほとんど進んでいない。 基本的には既存の官僚システムの構造を維持するような技術のみが歪に発展しているように見える。

オープンソースのインタネットソフトウェア開発の一部とは、Linux とか Apache とかのことだろうか。 また、Google の公開した Word2Vec や transformers や BERT などのことだろうか。 ただ、これらの技術も所詮は情報工学の分野の一部で、結局はプリンターやタイプライターから発展した分野なので、官僚制テクノロジーのような気もする。 まあ、Linux は衛星に搭載されてるし、詩的テクノロジーとも言える気がする。 はたして、ChatGPT は詩的テクノロジーなのだろうか。

3  規則のユートピア

メモ

官僚制は多くの不満を持っているが、その一方である種の魅力を持っている。 その魅力とは、官僚制が非人格的なことである。 その非人格的な部分に人間は惹かれるのである。

ゲーム:完全にルールが明らかになっている状況で、自分の行動を決定して勝利を目指す。

プレイ:明確に定義はできないが、ゲームのルールを作ることもプレイのうちに入る。プレイではルールを作ることが詩的テクノロジーのように感じることがある。

人間はゲームとプレイの間をゆらゆら揺れながら新たなルールを生成し続けている?

感想

この章はあまり理解できなかった。 キリスト教の話とか見たこともない映画やゲームの例が多かったからかな。 人間はゲームに非人格性に一種の快楽を覚えつつも単調だと飽きてしまうので、少しのルールを付け加えることでプレイするようになる。 それによって、官僚制というゲームでは、その少しづつのルールの積み重ねによって手続きが膨大になっていくと言ってるのかな。

おわりに

「僚制のユートピア」を読んだ。 わからない部分もあったがかなり面白かった。 自由な競争は社会を強く前進させるというのが資本主義の原理だと思っていたが、実態としてその前進の強さに社会が耐えられていたのは 1960 年代ぐらいまでであることや、それ以降は官僚制によってイノベーションそのものを統治しようとする仕組みが誕生してしまっているというのが結構絶望的な視点で興味深かった。

私の視点から現代社会を見てみると、最近の IT 技術はデータサイエンス系の技術(データの民主化やデータドリブンな経営判断など)が流行っているように見えている。 データサイエンスはそれそのものが官僚的であって、結局は企業の中間管理職や役員の意思決定のための技術のように思える。 そのためデータサイエンスは官僚制的テクノロジーに分類されると思う。 またこの技術は現場の従業員の業績を監視したり消費者行動を監視したりする仕組みのため構造的暴力の武器とも言えると思う。 それによって守られるのは既存の官僚制なので、儲かるのも当然だし、その分野の IT 技術が異様に発展しちゃうのも不思議ではない。 核分裂を見つけてから原爆落とすまで 7 年しか掛からなかった人間のどうしようもない暴力性から考えれば、この分野の異様に技術を発展させるのは当然の流れとも解釈できる。 ただ、これって結局は官僚制を補強する技術なので、結局書類の増加だけが待っている気がする。

2023 年に ChatGPT などの生成系 AI が現れ、この技術がどういった方向に向かっていくのか気になっている。 ChatGPT が増えてしまった官僚的手続きの自動化にしか使われないのだとすると面白くない。 ChatGPT は詩的テクノロジーであって欲しい。